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たらったらっ書きます。大人2年目。

経験則でしか物事をみれない人と闘うには経験則で語るしかないのだろうか。

たとえば会社

 

たとえば恋愛

 

たとえば勉強

 

なんでもそうだけど、「自分がこうだったから」で話す人がいる。

 

それは嘘でもなんでもなくて、たしかに事実だと思う。だって経験したんだから。

 

でもそこで考えなくてはならないのは、それはどこにいても、誰がやっても、どんな状況でも同じことが言えるのか、と言うことだと思うのね。

 

それから考えるべきは、その経験って必ず必要だったのか?ということ。

もっと効率のいい方法はないのか?もっと必要な手順はなかったか?いらない苦労はしなかったか?

 

その全部を考えた上で、それが正しい、あるべき道だと判断したなら、それでいい。

 

でも多くの人は、「自分ができたことは人もできるはず」と思ってしまう。

積極的にそんなこと言う人は減ってきているような気はするけれど、なんとなく心のどこかで思ってしまう。それは私もそう。

 

でも自分と相手が生まれ、育ち、時代、経験全てが同じ人間ではないということを踏まえて考えなきゃ、と。

 

経験則に納得がいかないからといって、意義を唱えても難しい。経験則でしか物事をみれない人っていうのは、「だって経験してないじゃん」「やる前から諦めるな」という言葉で完勝できちゃうのだから。

 

だったらどうすればいいんだろう。

わたしはそんなことをぐるぐる考えてなにもせず、「あの子は行動力がない」「努力を怠っている」と思われてるんだろうな、と思ってぼーっとしてた。

 

でも今日改めて「ああ、そうか。経験則でしかはかれないというなら、その”経験”を最速で積んで、どういう結果になったか示すことが闘う方法なんだなあ。」と思った。

 

目には目を、経験には経験を。

 

たとえその”経験”が無駄だったとしても、それが必要な経験だったのか、どうかなんて問題にされない。きっと「経験したねえらいね」とこっち側に入れてくれるだけなんだろうと思う。

 

それで、わたしはその経験に意味があったのかどうかを身をもって体験したからそれをもとに文句を言って、改善点を言って、変えていく。変えていこうとする。次のしたっぱに同じ思いをさせないために。それがあるべきしたっぱの姿なのかもしれないなあ。